壺の中の泉

きらめきたい

映画「悪と仮面のルール」へのリプライ

 映画「悪と仮面ルール」は感想という形で返答を記したい、そんな映画でした。
akutokamen.com
‐STORY‐

11歳の久喜文宏は、この世に災いをなす絶対的な悪=“邪”になるために創られたと父から告げられる。やがて、父が自分を完全な“邪”にするために、初恋の女性・香織に危害を加えようと企てていることを知り、父を殺害して失踪する。十数年後、文宏は顔を変え、“新谷弘一”という別人の仮面をつけ、香織を守るために殺人を繰り返していた。そして、文宏の過去を知る異母兄の幹彦や日本転覆を企むテロ組織が香織を狙い始めたと知った文宏は、ついに自身の背負わされた運命に立ち向かうことを決意するが――。

‐CAST‐
久喜文宏(新谷弘一):玉木宏
久喜香織:新木優子
伊藤亮祐:吉沢亮
ほか(敬称略)

‐主題歌‐
youtu.be
 この映画のメインストーリーを端的に表した歌詞だな、と思います。

 ネタバレ配慮はありません。吉沢亮さん演じる伊藤亮祐に寄った感想文になっています。


 シアターを出てから見えた世界は少しだけ憂鬱に見えたけれど、それは温かいスープと烏龍茶を飲むと消える幻でした。劇中に少女期の香織がサンドイッチを一人で食べるシーンがあり、そのサンドイッチは救いだったなあ、と思ったものです。


 観る前と後で、登場人物の印象が変わりました。久喜文宏あらため新谷弘一は初恋の人のために顔を変えて再び殺人を繰り返すと記してあったから、狂人のようなものを想像していました。しかし思っていたよりも体温がある、穏やかだと感じました。それがむしろ怖いのかもしれません。「頭のいい犯罪者のように」「自然すぎる」と、"新谷弘一"を追っていた刑事・会田*1が行った言葉が時折蘇ります。
 香織を想う彼はあまりにも人間くさくて、ちょっぴり愛おしいとさえ思いました。それに自分の人生を放棄している伊藤に少しでも生きようと思わせたんです。冷たい人ではないと思います。

 そんな彼の初恋の人、久喜香織。とても綺麗。久喜香織という名前に相応しい容貌です。彼女の印象はあまり変わっていませんが、想定は答えの的より少しだけずれていたのかな。主人公の初恋の人という情報しか知らなかったからただただ綺麗だなとしか思えなかったとも言えます。
 憂鬱を晴らすためにその身を狙われる香織は久喜家の、世界の道具のように見えました。文宏の父である久喜捷三の妻と同じで、邪が執着する”善良”の人で、ほんとうに綺麗な心を持っている人だと感じました。

 そして久喜文宏の存在を察知して自らが所属するテログループに引き入れようとする青年、伊藤亮祐。
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natalie.mu
 吉沢さんのインタビューが全てという感じがするのでまずは見て下さい。
 テログループの一員と聞いていたから、もっと静かで過激な人物だと思っていたら、世界に潜むただの人間。希死念慮がある人。
 周囲の人間から暴力的に邪険に扱われて、美しいものを美しいと思う真っ白な心なんてはじめから備わっていない。失うものがないから殺人を犯そうとする。けれどそれを、失うものをまだ知らないだけだ、これから知るかもしれない、と諭されます。主人公に説教される、"まだ"殺しをしていない、とっても若い青年でした。

吉沢:水って、生命の根源のようなイメージがあるじゃないですか。テロリストとして世界に絶望を与えようとしている人間の周りに、そういった生命の象徴があふれている。水を飲んで、一番体に害のないものを取り入れている。

 彼のシーンには水があり、彼はいつも水を飲んでいる。上記のインタビューのこの部分を読んでゾワッとしました。
 唯一水が出てこない室内のシーンでは涙を流していて、彼を巡る水の存在がますます印象深いです。
 吉沢さん、とてもとても綺麗な役を演じられているなあと思いました。彼にも幸せな記憶がきますようにと祈るしかありません。
 死にたがりの伊藤は文宏との交流を通して少なくとも次に文宏に会うときまでは生きる意思があって、この映画の中では希望あるエンドだったと思います。


 中村文則さんの「去年の冬、きみと別れ」にこのような一文がありました。

医学は、人の逸脱に名前をつけて安心するんだろう。

 父親を殺した文宏が鏡を見て発狂しそうになること、その他様々なことに対して、わたしはつい「あの病気みたいなものだな」と思いました。けれど、ああまた、その状態を名付けて括ろうとしてしまった…とハッとしたのです。彼が彼であるだけなのに。まして何も不自然なことはないのに。

 もっとも、久喜文宏は"異常"だとは思いませんでした。先にも記したけれど、そう見えない恐怖はあるのかもしれない。
 刑事さんが以前の新谷(文宏ではない生前の新谷)より今(新谷の顔をした文宏)の方がマシだと言ったことで何だか救われたような気はします。こう言うのは不適切なのだろうけれど、新谷"より"幾らか人としてよく見えるんですもの。新谷さんどんな人だったのよ…と思っちゃいます(笑)
 同じ邪であると言う伊藤は、たしかに育った環境は劣悪だったけれどだいじなものが見つかっていないだけの青二才に過ぎないのだと思います。ハッピーエンドの物語を知らないだけの。自称悪の存在だけれど、それは矛盾している。
 劇中で繰り返される語りがあります。それは、

 ある人にとってのハッピーエンドの物語はその人の人生総てが幸せだったとは限らない。ある部分を切り取った"物語"がハッピーエンドであればその物語はハッピーエンドだったと言えるのだ。物語のその後に地獄が待ち受けていたとしても。

 ということです。何度も語られたので印象に残っています。
 文宏にはハッピーエンドの物語があったから生きているとも言える。伊藤のような人に「生きろ」と言う。でも伊藤はハッピーエンドを知らないから生に執着がない。
 文宏は死にたがりの伊藤に「お前は俺の分身みたいなものだ」と言います。どこか他人ではない、似ている。だから自分のように生きる幅を狭めて欲しくなくて、説教みたいなことをする、よく喋る。
 幸せを見つけてほしいと思ってるのかも。わたしも思いました。
  

 ミラー越しのカメラがよくあって、こんなに鮮やかに見えるんだ…と感じました。また伊藤らの部屋の換気扇越しのカットもあり、意図的かどうか分かりませんが、「見える」と思わされます。ここまで極端ではないにしろ、たしかに世界とはいつどこで誰に見られているか分からないものですよね。

 そういえば伊藤は外のシーンでは綺麗な背景ばかりなのに屋内(住処)はとっても散らかった狭いアパートで彼のギャップのような本質のようなものを感じました。身は綺麗だけれど心は仄暗い、っていうところ。同時に邪悪と自らに肩書をつけておきながら完全には悪になりきれてないという矛盾も持っている。ああやっぱり、幸せを見つけてほしいなあ。
 時間が経つほどに吉沢さんが演じた伊藤亮祐について考えてしまいます。危うさに囚われそうになる、そういう造形的な深みが、スクリーンの向こう側の彼にはありました。

 原作は未読ですが、この機に中村文則さんの本を読んでみようと「何もかも憂鬱な夜に」を読みました。原作を読みなよ!と我ながら思いますが、図書館に置いていませんでした。「何もかも憂鬱な夜に」を読んだときに、この世界観に吉沢さんかあ似合うなあって思って期待値が一気に上がりました。それから文章が綺麗に感じて読みやすかったです。これからも他の作品を読んでみたいと思える作家さんでした。そういう作家さんに出会えることは滅多にないのです。
 映画「悪と仮面のルール」は原作の綺麗な言葉を紡ぐセリフが多く、何度も「活字で読ませて!」と思いました。不意打ちに過ぎ去る川の魚みたいにするする流れていくから、今なんて…?!ってなりますし(笑)言葉を噛み締めたい!でもそういった綺麗な言葉で形成される映像が美しいのもまた事実で。
 初恋の人だったりハッピーエンドの物語や記憶だったり、大切な何かがあることの素晴らしさと救い、そういうことについて考えさせられる映画でした。それはきっと生きる力になるのです。

*1:文宏は、一度死んだ”新谷弘一”という身分に生まれ変わる。生前の”新谷さん”は恋人だった女性を亡くしていて、会田刑事は”新谷さん”が彼女を殺したのではという疑惑を持って追いかけている。